安藤仁子(まさこ)のwiki/どんな人物だったの?


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このページは、NHKの朝の連続テレビ小説「まんぷく」の立花福子(安藤サクラ)のモデルになっている安藤仁子(あんどうまさこ)さんのwikiをお伝えしていきます。

 

安藤仁子さんは、1917年(大正6)8月16日大阪市北区富田町に生まれました。安藤家の三女です。父は、安藤重信さん、母は安藤須磨さん。長姉・安藤晃江、次姉・安藤澪子です。

 

重信さんは元々福島県二本松にある神社の宮司の次男でした。しかし、色々あって事業をするため大阪へ。母親の須磨さんは元鳥取藩士の娘。

 

これもまた色々あって母親のみちのさんを伴って大阪に。そこで出会って結婚するわけですが、須磨さんは元々学校の先生になりたくて英語が堪能だったということです。

 

重信さんとの結婚で教員への夢は消え、その後は波乱万丈の重信さんの事業家人生に翻弄されます。安藤仁子さんと安藤百福さんの結婚にはじめ反対していたのはそんな理由があったんですね。

裕福だった幼い時代

安藤仁子さんが幼かったころ、重信さんは人力車を抱える会社を経営していて裕福だったそうです。今で言うタクシー会社ですね。

 

自宅も大阪の玉造にあって、隣家は大財閥の鴻池家だったそうです。その頃の安藤仁子さんの写真が残っています。幼い安藤仁子さんはベレー帽に編み上げのブーツというモダンな様子です。

 

安藤家は相当の羽振りの良さだったようで、重信さんの誕生日には家に芸者衆を呼んで大騒ぎするほど。一時は政治家を志したこともありました。

 

ところが安藤仁子さんが小学校に入る頃から家業が傾きはじめます。玉造の家から阿倍野区中道の小さな長屋に引っ越し、窮乏生活がはじまりました。

 

週に一回母と銭湯に通う生活。臭うドブ川。そんな生活の中でも小学校に入った安藤仁子さんは良く学び、良く遊び、元気におおらかに育ちました。

 

その間、姉の安藤澪子さんが画家の有元一雄さんと結婚します。また、家の近所の古谷英語塾に須磨さんの勧めで通うことが出来ました。

 

後々役に立つと思って学びはじめた英語が、都ホテルの入社や安藤百福さんとの出会いのきっかけになったわけです。

 

安藤仁子さんは金蘭会高等学校に入学します。水泳が得意で、朗らかな性格、大柄だったので目立つ存在でした。その時の仲良しが桑島貞子さんと馬淵冨美子さんです。

 

「まんぷく」では鹿野敏子(松井玲奈)と池上ハナ(呉城久美)という名前で登場しています。学校でも仲良し三人組と呼ばれ廊下で会うと先生のほうが避けて通るほどだったそうです。

 

安藤仁子さんは性格がおおらかで、モノにこだわらないのんびり屋さんだったと、桑島貞子さんが後に話ています。貧しいながらも楽しく過ごしていた女学校時代も、3年目にはついに学費が賄えなくなりました。

 

安藤仁子さんは休学して、大阪電話局の見習い職員に就職します。翌年からは夜勤の電話交換手になって、朝は学校、夜は職場、翌朝は職場から登校という生活をはじめます。

 

死に物狂いで6年かかって女学校を卒業します。その間、長女・晃江さんが結核で亡くなります。本当に辛く苦しい時代だったことでしょうね。

 

女学校を卒業した後、一家は京都醍醐の有元一雄さんの家に身を寄せたそうです。貧乏ながらも家族が揃ってちょっとホッとしたかも知れません。

 

若い安藤仁子さんは、英語と電話交換手の技能がありましたから、さっそく京都の都ホテルの常務に就職を掛け合いに行ったそうです。その場で入社決定します。

 



 

苦労を乗り切る秘訣

その後、安藤百福さんと出会って結婚することになるわけですが、ご存知のように波乱万丈の安藤百福さんの人生を共に歩んだ安藤仁子さんの人生は苦労の連続でした。

 

起業と倒産、お金の苦労、性格の激しい配偶者…。そんな中でも貧しかった画家の義兄と姉の一家の援助もして、驚くべきバイタリティです。

 

そんな安藤仁子さんの生きる秘訣は「クジラのように全てを呑み込む」こと。これは、母・須磨さん譲りの教えだったそうです。

 

どんなに不幸なことでも全てを呑み込んで忍耐するのが苦労を乗り越える秘訣だったのです。戦後の安藤仁子さんの人生を語るのに、観音様への熱心な信仰を忘れるわけにはいきません。

 

人間、いつ何時、何が起こるかわからないという思いは、幼い頃からの貧乏な生活が影響しているのでしょう。また、安藤百福さんとの結婚生活でも同様の思いを味わっていたからでしょうか。

 

自ら慈悲の観音様と一体になることを祈りながら、観音様の霊場を巡る巡礼の旅を始める様になります。しかし、絶対に外泊はせず、日帰りで行けるところまでは車で行き、あとは一人で歩く巡礼だったそうです。

 

安藤仁子特製「ポンサラダ」

安藤仁子さんは安藤百福さんの食生活に大変気を配っていました。若いころの憲兵や警察からの拷問のせいで腹膜炎の後遺症が残っていたので、お腹の調子に人一倍気を使っていたのです。

 

そのため、どんなときも安藤百福さんの食事は朝晩必ず安藤仁子さんが用意したそうです。そんな事もあって、巡礼でも外泊しなかったのですね。

 

安藤仁子さんがよく作って、安藤百福さんの好物だったのは「ポンサラダ」といわれるものです。キャベツ、ニンジン、ピーマン、ワカメを千切りにして盛りつけるサラダです。

 

ただ、普通のサラダとは異なり電子レンジで温め特性ドレッシング(マヨネーズ、酢、お酒を混ぜて塩・胡椒で味を調え、和ガラシを加える)で作るものです。

 

安藤百福さんが、レンジで温めることを「ポンしてくれ」と言っていたことから名前が「ポンサラダ」。ヘルシーなサラダを温めるところが独特ですよね。

 

どんなに大変な時でも動じずに、クジラのように全てを呑み込んで周りの人を励まし、夫や家族に尽くしてきた安藤仁子さんは2010年に92歳で亡くなりました。

 

安藤百福さんが亡くなった3年後でした。以上が安藤仁子さんのwikiになります。朝ドラ「まんぷく」の中と共通するところがたくさんありますよね。

 

まんぷくの立花福子との違い

まんぷくは、福子のモデルになっている安藤仁子さんをかなり忠実に描いているように感じます。上げればきりがありませんが順番に上げていってみますね。

 

母の安藤須磨さんは元鳥取藩士の子供になりますので、よくドラマで「私は武士の娘です」という言葉を連発していますが、そこをきちんと描いていると感じます。

 

ただ、源頼朝の子孫だというのはさすがに違いますね。この辺りは、かなり脚色があるかなと思います。また、女学校時代に貧しかったところをドラマで描かれていましたがここも史実どおりになっていますね。

 

姉の長女・晃江さんが結核で亡くなるところがドラマでも描かれていました。長女・咲(内田有紀)は視聴者みんなが悲しむ中で結核で亡くなりましたよね。

 

また、安藤澪子さんが画家の有元一雄さんと結婚しているところも史実のままですね。「まんぷく」の中では、克子(松下奈緒)と忠彦(要潤)が結婚しています。

 

英語ができてホテルに入社しているところもそうですし、忠彦の家にしばらく身を寄せるのも事実です。なので、かなり史実に忠実に「まんぷく」が描かれていることがわかります。

 

今後の朝ドラ「まんぷく」を史実と重ね合わせてみていくのも楽しいですよね。どこかで観音様への熱心な信仰がでてくるのか楽しみですね。

 

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