広岡浅子さんが尽力したことの一つに日本女子大学の創設があるねんな。それは、加島銀行を創設した際に渋沢栄一さんから言われた人間育成という言葉が大きく影響をしててん。
そして、広岡浅子さんにその人間育成というテーマがあっても成瀬仁蔵との出会いがいなかったらこの話は実現してへんかもしれんねんな。
加島銀行創設後には、多数の寄付金を集めたい人が、毎日のように加島銀行の広岡浅子さんに面会させてくれへんって話をもってやってくんねん。
その中には、女性実業家への興味本位から会いに来るといった貴重な時間を泥棒していくやからも多く存在してんね。成瀬仁蔵さんを紹介された時もそのようなことではないかと広岡浅子さんは疑ってたねん。
その紹介は、加島銀行の大口顧客の土倉庄三郎からの手紙で、成瀬仁蔵さんが広岡浅子さんに是非会いたいと話てはるという内容やってんね。
ただ、これまでの時間泥棒させられる経験もあってんから、ひと月後にしてくださいと申しいれててんね。成瀬仁蔵さんとは、大阪梅花女学校の校長をしている人物ねんね。せやから、どうせ寄付金が目当てだろうという想いも広岡浅子さんの心にはあってんね。
しかし、どうしても会いたいという成瀬仁蔵さんは、広岡浅子さんに直接電話をしてきてんね。時間はとらせないということだったさかい、翌日の夕方にあってんね。
成瀬仁蔵さんは、広岡浅子さんに女子教育を育てたい。そして、それが日本の将来を明るくすることを真剣に面と向かって熱く話てんね。それを熱意をみはった広岡浅子さんは、その話を聴いて、渋沢栄一さんが以前話していた「人間育成」を思い出してんね。
成瀬仁蔵さんの話が、単純な寄付金のお願いではないことがわかった広岡浅子さんは、詳しく話を聴きくことにしてんね。成瀬仁蔵さんは、日本国初の女子大学設立に力を貸してほしいと話すねんな。しかし、広岡浅子さんは、忙しいという理由でやんわり断んねん。
それでも、成瀬仁蔵さんは一歩もひかず、帰る間際に教育論を書いている著書を置いていきます。広岡浅子さんは、その著書を九州の炭鉱に行く際の電車の中で読んでみてんね。そこで、成瀬仁蔵さんの教育論にに深く感銘しはってんね。
結果的には、この本が広岡浅子さんの心に火をつけます。長年抱いていた自分の夢が、成瀬への協力によって実現しそうなことを考えると、胸がときめいてきてんのを実感してん。
せやから、成瀬仁蔵さんに女子大学設立に賛同する考えを伝え、広岡浅子さんは、成瀬仁蔵さんともう一度話す機会をもってんな。そこで、どんなに立派な理念を持ってはっても、お金がなければその実現しいひんと広岡浅子さんは話まっせ。
また、女子大学を創立するには、30万円はかかる。そのようにはっきりと成瀬仁蔵さんに伝えんねん。けたが一つ違うのではないかとびっくりしはる成瀬仁蔵さんに広岡浅子さんは、それは最低必要と強くいうねんな。
そして、そのお金を集めはるためには、有力者に寄付金をお願いしいひんとあかん。せやから、浅子が作戦をたててんね。それはトップからの協力をとりつけることで、後は順番に崩れていくという作戦だす。
そのトップとは、総理大臣に伊藤博文。浅子が知ってはる仲であんねんな。しかし、広岡浅子さんは自分が前面に出ずのに、成瀬仁蔵さんに前面にでて話しはるようにお願いしてんね。
結果として、最初にそこを落としたことで、大隈重信や渋沢栄一など有力者から多数の寄付金を得ることができてんね。その結果、なんとかお金を工面することができまっせ。
場所については、東京と大阪で迷っててんけど、浅子の実家の三井家から別荘地を寄贈する話をもらってんから東京に設立することになってんな。
そんなこんなで、紆余曲折ありながらも、東京目白に日本女子大学が開学してんね。初代校長に成瀬仁蔵さんが就任し、広岡浅子さんは評議員として残ることになってんねんな。
それは、明治34年4月のことでありまっせ。こうして、広岡浅子さんの夢の一つ、人間教育の女性版をこのような形で達成することになってんよ。
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