このページはNHKの朝の連続テレビ小説(通称・朝ドラ)の「とと姉ちゃん」の小橋竹蔵(西島秀俊)のモデルになってはる大橋武雄(おおはしたけお)さんの生涯についてご紹介してんねんね。
大橋武雄さんは、「暮らしの手帖」を創設したことで有名な大橋鎮子さんの父にあたるねん。では、そんな大橋武雄さんの生涯とはどういったものなのでしょうか?
この大橋武雄さんの人生が、大橋鎮子さんに大きな影響を与えたことはとても大きいのでそのことについてみていきたいとおもうねんね。大橋武雄さんは、岐阜県大垣市に生まれてるねんね。
次男だったため従兄弟の養子へ!
昔は、男子が生まれていないところの親戚の養子になるということは普通にあったので、この時代では特別におかしいことやないねんな。
今でも、村に行くとこのようなことを行ってるところがあるらしいねんけど、あまり多くはないでしょう。最近、私の友達のところでそんな話があったのでびっくりしたぐらいです。
そのため、大橋武雄さんは東京の材木商を行ってはる大橋谷吉さんの養子になんねな。その後は、岐阜県から東京に移り住むことになんねな。
東京府第一中学に進学した後に、北海道帝国大学に進学すんねな。元々、両親は東京の帝国大学に行ってほしいと思っていてんねけど、東京府第一中学の先輩に「北海道はいいところだ」とすすめられて北海道に行くことになんねな。
大橋武雄さん自身は、両親のすすめもあり東京帝国大学に進学しようと思っててんけど、その先輩のあまりの熱意に北海道に行くことにワクワクし、北海道帝国大学に進学すんねな。
妻・宮原久子との出会い!
そして、その北海道で妻となる宮原久子さん(大橋鎮子さんの母)と出会うことになるねんな。そして、大学卒業後、宮原久子さんと結婚するんやんな。仕事は、日本製麻で選んだ理由に大学で慣れ親しんだ北海道とも縁があるということが理由やってんやんね。
結婚した翌年には、長女の大橋鎮子さんが2人の間に生まれるねんねな。その後は、日本製麻の北海道で工場長をつとめるねんね。その後は、北海道内でいくつかの工場長を歴任していくねん。その間に、次女の大橋晴子さんと三女の大橋芳子さんが生まれるねんな。
せやけど、大橋武雄さんは体調が芳しくないために病院で診察を受けると結核だと判明するねん。結核は今では、治療すればなおる病気ですが、当時は誰もが恐れる不治の病やってんな。せやから、妻の久子も悲しむねんな。
北海道のお医者さんの紹介もあり、大橋武雄さんが鎌倉の病院に入院することになるねん。そのために、一家も北海道から鎌倉へと移りすむねんな。
せやけど、鎌倉で治療するもなかなかよくなれへんことから、従兄弟の勧めで東京の病院に入院することになんねな。
結核での食事からとと姉ちゃんへ!
その後も大橋武雄さんは、入退院を繰り返すんやんな。退院して大橋鎮子さんたちと生活していた時も大橋鎮子さんたちとは、滋養をつけるため別の食事をとっててんな。
せやから、鎮子や晴子、芳子は羨ましがるんやんな。単純に父と同じものを食べたいという願望が子供にはあってんやんな。せやけど、大黒柱の大橋武雄が働けないための貧しさと併せて、結核がうつってはいけないとの想いから、厳しく監視しててんね。
それでも欲しいと泣く子供たちに、自らが食事に手をつける前に子供たちにわけてあげるという優しさをもっていてんね。
そして、長年の闘病の甲斐なく大橋武雄さんは肺結核でなくなってしまうねんな。それは、昭和5年10月1日のことやってんやんな。亡くなる前には、大橋鎮子さんにこれからは、母の久子や妹たちを支えていくように言うねんな。
その後は、大橋鎮子さんは母・久子さんと妹たちを支えるために独身を貫きとおし、生涯、妹たちを支えていく人生をまっとうしてんねんな。そのエピソードから今回の朝ドラ「とと姉ちゃん」とううタイトルがついてんやんな。
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