大橋久子(大橋鎮子の母)はどんな性格の人なの?

このページでは、朝ドラ「とと姉ちゃん」でヒロイン小橋常子(高畑充希)の母・小橋君子(木村多江)の実在モデルとなっている大橋久子おおはしひさこ)さんについてどんな人だったのかご紹介していくねんね。

 

大橋久子さんは、現在でも続いている「暮らしの手帖」を創刊した大橋鎮子さんのお母さんになんねな。また、「暮らしの手帖」の社内では、暮らしの手帖のおばあちゃんとしても親しまれていてんやんな。せやから、大橋久子さんがどんな人だったのかを詳しくみていきたいと思うねん。

 

大橋久子(旧姓宮原久子)さんは、京都に生まれます。父は、宮原満吉さんです。宮原満吉さんが京都から新潟に移り住み油田を掘り当てたことで、大橋久子さんの一家は北海道の小樽に移りすむねんね。

 

5人ぐらいの従業員も雇い新聞や牧場などを経営している父のもとで育っていくから暮らしはとても裕福やってんね。大橋久子さん自身は、小樽高等女学校を卒業後は、東京の美術大学に進むんやんね。




夫・大橋武雄との出会い!!

東京の美術大学に在学中に夫となる大橋武雄さんに出会うねんな。せやけど、その場所は東京ではなく北海道やってん。大橋久子さんが北海道で帰省してはるときに偶然に出会ってん。

 

その後、交際にいたり東京と北海道で遠距離恋愛をすることになんねな。せやけど、北海道の帝国大学を卒業した大橋武雄さんは東京に戻り就職すんねん。その1ヶ月後に二人は結婚という流れになんねな。

 

そして、2人の間には大橋鎮子さんが生まれるねんね。幸せいっぱいの家庭になっていきます。大橋武雄さんの仕事も順調でした。その後、大橋武雄さんが北海道に転勤となり、3人で北海道に移り住むことになんねんね。

 

北海道では、2人の娘に恵まれるねんな。次女の大橋晴子さんと、三女の大橋芳子さんが生まれるねんね。大橋武雄さんも工場長として赴任してたために、家庭は生活にも余裕があってんねな。

 

北海道の大地でのびのびと暮らす子供たちと幸せな家庭を家族みんなで築いていてんねな。せやけど、夫の大橋武雄さんが風が長引いてると思い病院で診断を受けるとなんと結核であることがわかるねん。

 

夫・大橋武雄の死!!

当時、不治の病であった結核を患ってしまったために、仕事を辞め東京で治療に専念するために一家で東京に引っ越すねんね。

 

大橋久子さんは、一生懸命大橋武雄さんの病気が治るように看病するねんな。当然、一家の大黒柱が働けなくなった家計は大変やってんな。北海道から父の宮原満吉さんからの仕送りでなんとかやりくりしてんねな。

 

これまでのように贅沢もできへんし、裕福な家庭から一転するねな。それでも、大橋久子さんは愚痴一つ言うことなく大橋武雄さんの看病を懸命に行ってんやんな。

 

このように大橋久子さんの性格は、裏方に徹してはる、おとなしく控えめな良妻賢母やってんな。子供たちには学校にちゃんと行くように、勉強をするようにと厳しい面もあってんけど、夫の大橋武雄さんの病気がなんとか治らへんかと看病をしてんねな。

 

しかし、その甲斐むなしく大橋武雄さんは結核を患ってから5年で亡くなってしまうねんな。大橋武雄さんの最後の言葉で、今後は大橋家を支えていくのは大橋鎭子さんになります。

 

そのために、葬儀の喪主も大橋鎮子さんがつとめんねな。これは、大橋武雄さんの遺言でもあってんけど、母の大橋久子さんが大橋鎮子さんに今後はたくましく生きて欲しいと願っての意味も込められててんな。




一獲千金を夢見た「オーシー歯磨き」

その後、貧しいながらも東京で一家4人で暮らしていくねんね。この頃、大橋鎮子さんは小学校5年生やねんね。母の大橋久子さんは歯槽膿漏に悩んでいて歯医者に何度か行くねんね。

 

しかし、そこの歯医者の先生が戦争の兵隊のために海外に行く必要があったんやんな。せやから、治療ができへん。そして、どうやって薬をつくるか教えてくれてんねな。

 

それが、大橋久子さんによくあってんやんな。その話を大橋鎮子さんが学校ですると、友達のお母さんなどにも効果がありそれを売らないかという話になってんね。
そして、作ったのがオーシー歯磨きやねん。

 

大金を使い大量に作って売ろうとしてんけど、結局まったく売れへんかってんやんな。せやから、その事業は失敗に終わるねん。

 

やがて、時は進み大橋鎮子さんは銀行に就職し給料とりになんねな。せやけど、その頃の女子の給料は著しくなんねな。また、もっと学びたいという想いがでてきて、日本女子大学に入学するねんな。

 

それは、銀行に入社してから3年してからのことやってんな。せやけど、日本女子大学に入ってすぐのことやねん。大橋鎮子さんが血を吐くねんね。結核ではないかと心配した大橋久子さんは大学を辞めるように言い、懸命に看病するねん。

 

誰からも好かれる気遣いのできる人!!

その後、大橋鎮子さんは回復して再度働きだします。やがて、自らで事業を行うようになり「暮らしの手帖」を創設するねんね。そこには、妹の大橋晴子さんや大橋芳子さんも一緒に働いててんね。

 

せやけど、大橋久子さんはあくまで裏方に回り表立ってその事業にかかわろうとはしいへんかってんねな。このあたりは、大橋久子さんの性格やねんね。

 

しかし、暮らしの手帖の料理の中には大橋久子さんが作ったもののレシピがたくさんあったりしててんね。また、大橋鎮子さんの炎のパートナーと言われた花森安治さんにも「おばあちゃん」と親しまれててんね。

 

また、従業員にもおにぎりをもっていったりしたり、買わなくてももらえる「暮らしの手帖」をいつまでも自分のお金で購入していてんやんな。そのことなどから、従業員らからも、暮らしの手帖のおばあちゃんと親しまれるんやんな。

 

大橋鎮子さんのお母さんとかおばあちゃんとかって言われへんところに大橋久子さんの裏方に徹してきた魅力が詰まってるんだと思うねんね。だれからも好かれる気遣いができる人。それが大橋鎮子さんの母・大橋久子さんだったんやんね。




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