朝ドラあさが来たで、人気爆発しているのが元薩摩藩士出身で、大阪をこよなく愛した実業家である五代友厚さんです。その五代友厚の死因と生涯についてお伝えいたします。
また、朝ドラあさが来たでの五代友厚と実在モデルとの比較などもお伝えお伝えしていきたいと思います。まずは、五代友厚さんの死因からお伝えします。タイトルにもありますように、五代友厚が亡くなった原因は糖尿病です。
年齢は、まだ49歳という若さでの死でした。広岡浅子さんが実家三井家の法事で五代友厚と遭遇してからわずか1年後という短さでした。その葬儀には、4300人というびっくりぽんな人数が訪れ、大阪の経済界の顔であったことが証明されています。
そんな五代友厚ですが、1836年(天保6年)に薩摩国鹿児島城下長田町城ケ谷に生まれます。父は、五代直左衛門秀堯(なおざえもんひでたか)で、薩摩藩の儒学者でした。NHKの大河ドラマにもなった、篤姫は同郷になります。
五代は15の頃に、ポルトガル人からもらった世界地図の複写を2枚つくります。一つは薩摩藩に提出し、もう一つは自らが持ち、いつも地図を眺めていた五代友厚。若い頃から世界が気になっていたのです。
そして、26歳の時に何度か上海に渡ります。その際に、同じ船に乗っていた高杉晋作と仲良くなります。ちなみに五代は、開国論者だったため、とても坂本龍馬とも親密な関係だったようです。
1963年に薩英戦争で、五代はイギリス軍の捕虜になります。そのため、西洋文化にも触れることになりさらに興味を持ちます。その後、薩摩潘に対して今後の国づくり計画書を提出して、若者の海外留学の必要性を説きます。
その計画書が認められたため、五代は鎖国であった当時にもかかわらず、薩摩藩からイギリスに留学が実現します。そして、1865年(元治2年)にイギリスに行きます。
イギリスだけでなく、ベルギーやフランスなどを回り、各国の産業を視察します。そこで、紡績関係の機械や武器を購入します。また、フランスの貴族のモンブランと薩摩藩の間で貿易を行う仮契約をして帰国します。
大阪へ役人として就任
その後、幕府が倒れ薩長の新政府になると、五代のこれまでの経験が認められ、外国との交渉を行う外交官として大阪の役人になります。
その頃、銀目廃止や新政府への上納金の負担、大名貸しの返済が行われないなどのことから、大阪の商人次々と倒産し経済が衰退している状況でした。
そこで、五代はまず大阪港の開港に力を注ぎ、港は無事開港します。造幣局の設立にも五代は大きくかかわり、国内の様々な通貨の一本化に道筋をつけます。
また、商業振興のための機関をつくろうと計画し、消極的な態度であった商人たちを一軒一軒回って説得します。そうすることで、大阪財界の中心的存在となっていくのです。しかし、政府により五代は横浜転勤を命じられます。
慌てた大阪商人たちは、政府に嘆願書を提出して、五代の留任を求めますが、結局五代は、横浜に行く事になってしまいます。それでも、五代は横浜に行ってから2ヶ月で役人を退職し、大阪に戻ってきます。
官から実業家へ転身後の五代友厚
こうして、武士から役人、役人から商人へと五代は転身していくのです。実業家となった五代は、金銀を分析する所を作り、古い金銀を溶かして分析をし、鋳造して造幣局に納入したのです。
五代は、このことで後に行っていく事業のための資金を手にします。そこで、五代は、鉱山事業に参入します。1870年(明治3年)に天和銅山、蓬谷銀山などの鉱山経営に関与し、鉱山経営を管理する会社の弘成館を設立します。
この会社が初めて鉱山経営の近代的な管理体制をとったのです。炭鉱については、広岡浅子さんよりも後に購入していますが、五代友厚さんは、近代的な管理会社を作り、管理したことで、爆発事故などを防ぎ、効率的に運営できるようにしました。
鉱山も広岡浅子さんが10年で手ばなしたのに対し、五代さんは末永く保持していました。そのため鉱山王というニックネームがついたほどでした。大阪株式取引所についても、五代が深くかかわっています。
自らが発起人となりまして、豪商らに呼びかけ、設立し取引が始まります。それが、1878年(明治11年)のことです。そして、横浜に行く前からの念願だった大阪商法会議所(現在の大阪商工会議所)を設立します。初代会頭にも五代が就任しています。
このように実業家として華々しい活躍をしている中でも、五代は商人に対する学問の必要性を感じ、教育へも尽力します。大阪の財界有力者などに働きかけ大阪商業講習所を設立しています。
この学校がやがて、大阪市立大学へとなっていきます。その他にも、関西貿易社、日本初の民間鉄道会社、阪堺鉄道会社など五代の功績はあげればきりがありません。
日本を導く仲裁にも参画
また、実業家や教育家としての顔だけでなく日本の大切な会議での仲裁役にも五代はなっています。それは、1875年(明治8)に行われた有名な会議の「大阪会議」です。
大久保利通と仲が良かった五代友厚は、当時日本を実質的にうごかしていた大久保利通と政府を去っていた、板垣退助、木戸孝允らとの仲裁役をおこなったのです。
当時、大久保利通と板垣退助らは一触即発の状態で緊張関係にあったのですが、この大阪会議を機に板垣退助らは政府に復帰しています。
仲裁には、五代友厚は大久保利通サイドの人として呼ばれ、他の伊藤博文や井上馨と共に会議を成功させました。それから10年経過後の1885年(明治18)年に五代友厚は、前述の糖尿病で五代友厚は亡くなっています。
大阪の経済界に多大な功績を残した五代は常に「国のため、人々のためであり」生涯、財閥を持たなかったことに、五代の想いが表されているのではないでしょうか?その余りの早さでの死に大阪中の商売人が惜しんだのではないでしょうか。
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